ドアを開けると・・・
===リバウンド===


 ドアを開けると、二人の男が立っていた。まだ、朝も早い時間帯のことである。

「豆山博士ですね?」

 一人の男が、警察手帳を見せながらそう尋ねた。

 豆山博士の顔に、一瞬緊張の色が走ったが、何故かすぐに納得した様子で、

「ああ、そうだ」

と、返事を返した。

 警察手帳を見せた刑事は、豆山博士の反応を敏感に読み取ったが、そのことはおくびにも出さず、事務的な口調で言った。

「少しお聞きしたいことがあるのですが、お邪魔してもよろしいでしょうか?」

 豆山博士は黙ってドアを全開にし、刑事たちを招き入れた。

 そこは、豆山博士の研究室だった。

 化学者の研究室らしく、なんだかわからないが薬品の匂いが鼻に突く。

 二人の刑事はその匂いに辟易しながらも、豆山博士に勧められて、デスクの近くの古びたパイプ椅子に腰を下ろした。

 刑事たちは、何故か薬品棚などをチラチラと盗み見しているようである。

 豆山博士も、これもまた相当な年代物の肘掛付きの椅子に座ると、
「で、なにかね?」
と、不思議と落ち着き払って、刑事たちに向かって身を乗り出した。

 こういう時には、まず落ち着いた方が勝ちである。

 豆山博士の心臓は、いつもよりも少しだけ鼓動が早くなっていたが、入念に落ちついた態度を装っていた。

 しかし、相手も数多くの犯罪者を相手にしてきた刑事たちである。豆山博士の張る防衛線をスラリと交わして、話し始めた。

「実は、一昨日のことなのですが、この近くのあるマンションの一室で、遺体が発見されました。死亡者は、ある薬品会社の社員です。死因は、浴室で手首を切っての出血多量と思われます。他に侵入者の形跡も無く、まあ、間違い無く自殺のようなのですが・・・」

「部屋に、薬品の空瓶と私の研究所の便箋があった、ということですな?」

 刑事の話しの途中で、豆山博士が割り込んだ。

「え、ええ。そうです。博士の方から口を切って頂けると話しは早い。やはり、博士のお知り合いの方ですか?」

「いや、知り合いでは無い。しかし、そいつが死んだ前の日に、私がつい先日完成した薬品とその説明書が盗まれたのだ。たぶん、私の研究を盗みに来た産業スパイだろう」

「そうですか。いや、我々もそんなところうだろうと踏んではいたんですが、ただ、解からないのは、せっかく博士の新薬品を盗み出すことに成功した産業スパイが、なぜ自殺をしたのかってことなんです。これは、その新薬品に関係のあることなのでしょうか?いったい、その新薬品とはなんなのですか?差し支えなければ、お教え願いたいのですが・・・」

「うむ。話してもよかろう。どうせこの薬品は成功し過ぎてしまって、製品化は出来ないだろうからな」

 豆山博士の含みのある言葉に、刑事は身を乗り出した。

「どういうことでしょうか?まさか博士・・・自殺がしたくなる薬では・・・!」

 もし、刑事のその考えが当たっていれば、豆山博士はとんだマッドサイエンティストである。

 しかし、豆山博士の口からは、刑事の想像よりも遥かに意表を突いた言葉が出てきた。

「いやいや。その逆だよ。あれは、幸せになる薬だったんだ。少なくとも私は、そうなるように作ったはずだし、思わぬ人体実験になったが、どうやら予想通りの結果にもなったようだ」

「しかし博士。幸せになるのなら、どうして自殺なんか・・・」

「だから言っただろう。成功し過ぎたと。私は、ある程度の幸福感を味わえる薬を作りたかったのだ。だが、どうやらあれは、至上の幸福感を味わえるようだな。今までに経験したことの無いような、今後も経験することの無いような、最高にして最大の幸福感だ。

「それがいったいどういったものか、私にも解からん。なぜって、私は、こういう結果になる可能性があることを、長い研究生活の間に考えついてしまったから、完成した薬品を飲むことが出来なかったのだ。

「考えてもみろ。最高の幸せを、想像も絶するような幸せを感じた後のことを。その後の生活になんの楽しみがある?二度と味わえない幸せを経験した後の人生に、いったいなんの意味がある?

「死んだ奴の部屋にあった薬品瓶は、空になっていたのだろう。なぜだと思う?仮にも、プロの産業スパイが、盗んだサンプルを全部使ってしまうなどとは、しかも自分で飲んでしまうというのは、おかしいことだとは思わんか?

「止まらないのだよ。麻薬と同じだ。

「私の推測だが、その産業スパイは説明書を読んで、少しだけ飲んでみようと思ったのだろう。ほんの少しだけ、口に含んだのかもしれない。しかしそれだけで充分だ。脳に直接刺激が行くからな。そして、至上の幸福を味わった。

「ああ、言っておくが、説明書には薬品の不完全な製法しか書いていなかったんだ。大事な部分は、私の頭の中だ。

「さて、あの薬は、急激に効果が無くなるように作ってあった。そして、一度使ってしまうと、即座に脳の中に耐性が出来るようにもしてあった。ん?なんだ?不思議そうな顔をしているな。そんなもの、長期の効果が何度でも味わえてみろ。全人類が働かんようになるぞ。研究当初から、私はそのことは考えておった。

「結局、その産業スパイは、一口飲んだら全部飲まないわけにはいかなかったのだろうよ。味わってしまった最高で最上で最悪の幸福を取り戻すためにな。そして、全部飲んでしまったとき、後は死ぬことしか思いつかなかったのだろう・・・血圧の薬などに良くある、リバウンドというやつだよ」

 豆山博士の長い話は終った。

 しばらくの沈黙の後、刑事が言った。

「なんとなく解かりますが、しかし、だからと言ってその薬が失敗などとは・・・なにか使い道があるはずです。たとえば・・・そう、今にも死にそうなお年寄りの安楽死に使うとか・・・」

 豆山博士は、急に恐ろしい顔つきになり、刑事を怒鳴った。

「馬鹿者!長い人生を、懸命に生きてきた人たちに、あなたの一生は全くの無駄でしたと言うようなものではないか!人間が、現実の世界で、無限の喜びなどを感じることが出来ると思うのか!」

 豆山博士に一喝された二人の刑事は、背中を丸めてすごすごと引き揚げかけた。

 その背中に向かって、

「どうだ。最後の一本だ。飲んでみるか」

と、豆山博士が薬瓶を差し出すように掲げた。

「い、いえ。結構です・・・」

 二人の刑事は、ドアから出て行った。

 豆山博士は、手に持った薬瓶をじっと見つめ、

「どうやらこれは、飲まない方が幸せになれる薬のようだな」

と言って、中身を全部、流しに捨ててしまった。

 

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