ドアを開けると・・・
===人として===
ドアを開けると、ドンと後ろから小突かれて、ジュウメイはその檻に押し込められた。檻といっても、自然に出来た洞穴の入り口に丸太で井形を組んだだけの簡単な造りの物なのだが、奥の方は調べるまでも無くすぐに行き止まりになっていて、いま入れられた入り口からしか出入りは出来ない。
その洞穴の檻は、普段は捕らえてきた動物を入れておく物なのだろうか。とにかくその臭さは尋常ではなく、背中を小突かれた痛みも、ここに連れて来られるまでに獣のような怪力でつかまれていた腕や足の痛みも忘れて、ジュウメイは少しでも新鮮な空気の吸える入り口の方に擦り寄って行った。
入り口の柵の外からは、ジュウメイをそこに押し込めた奴らが「ウォッ、ウォッ」と、低い奇声を発しながら、物珍しそうに代わる代わる檻の中を覗きこんでいる。
(ここから出してくれ!)
と、叫びそうになったが、その思いが口から出る前にジュウメイはあきらめてしまった。外にいる奴らには、どう見ても通じそうに無い。そいつらはかろうじて二本足で歩いてはいるが、人ではなかった。かと言って、猿やゴリラでもない。
そいつらの中には、木のヤリのようなものや、石で出来たこん棒みたいなものを持っている奴もいる。
どうやら、猿でも人でもなくその中間の生き物、類人猿のようである。
そんな奴らには『言葉』は無用のものだろう。
それでもジュウメイは、外に出して欲しいということを声と態度で表わしてみたが、類人猿たちにはやはり通じないようだった。それどころか、そのジュウメイのしぐさを見て、上唇のハグキをむき出しにし、
「グワッ、グワッ」
と、笑っている奴までいる。そいつらはジュウメイを檻から出すことなど、全く考えていないようである。
仕方なくジュウメイは、洞穴の壁にもたれ掛かるようにして腰を下ろした。
不思議なもので、さっきまであんなに臭かった洞穴の匂いには、徐々に慣れてきたようだ。
そうやってジュウメイが動かずにじっとしていると、柵の外から覗きこんでいた類人猿たちは、一匹が去り、二匹が去りして、いつの間にか皆いなくなってしまった。動かなければ面白くないとでもいうのだろうか。
辺りが静かになってから、ジュウメイはやっと『思考』することを思い付いた。
(どうして、こんなことになったんだろう・・・)
ともすれば錯乱してしまいそうになる思考の糸を、ジュウメイは少しずつでもほぐしていくことにした。この事態は、ジュウメイがある崖下で気を失って倒れていたところから始まる。
それを類人猿たちが見つけ、ジュウメイが気が付いた時には、十数匹の類人猿が遠巻きに周りを囲み、その内の勇気ある一匹が、ジュウメイを木のヤリのようなもので突付いていた。
なにせジュウメイの姿は、類人猿たちとかなりの違いがあったので、用心深い類人猿たちは、ジュウメイが気が付いて身体を起こした後も、迂闊には近づいてはこなかった。一定の距離を置いて、唸り声をあげる者、小首をかしげている者、他の者の背中に隠れて恐る恐る観察している者。
そしてそれは、ジュウメイにも同じことが言えた。
そいつらがなに物なのか、ジュウメイには解らなかった。それどころか、どうして自分がここに居るのかさえ解らなかった。
どうやら崖を落ちた際に頭を打って、一時的な記憶喪失になったようである。
それでもなんとか、自分の名前はジュウメイだ、ということは憶えていた。しかしそれ以外となると、皆目思い出すことが出来ない。
ジュウメイが困惑している間に、類人猿たちはじわじわと近寄ってきていて、遂には寄ってたかって押さえ付けられ、この檻に連れてこられてしまったのだ。
そして今、ゆっくりと考えてみて、どうやらなにか思い出しそうなのだが、それがなんなのか解らない。
思い出そうとすると、頭が痛くなって考えがまとまらない。
ジュウメイはあきらめて立ち上がった。
そして、どうにかして逃げ出せないものかと柵を調べてみると、なんと柵には鍵が掛かっていず、柵の隙間から手を伸ばしてカンヌキのようなものを外すと扉は簡単に開いた。
罠かも知れないと、ジュウメイは辺りの様子をうかがったが、急にバカバカしくなってその行為を止め、一目散に逃げることにした。
よくよく考えてみれば、あの類人猿たちが鍵を掛けることを知っているとは思えなかった。それに動物用の檻ならば鍵などは必要ではない。しかし、ジュウメイには簡単に開けることが出来て当たり前なのである。ジュウメイは、動物や類人猿とは違う、考えることの出来る『人』なのだから。
彼は走った。
類人猿たちが去って行った道とは違う道を選んで、走り続けた。
そして走りながら、徐々に思い出して行った。
自分は類人猿とは違う。あんな毛むくじゃらではないし、がに股で辛そうに歩くことも無い。目がくぼんで落ち込んでもいないし、額が不細工に出っ張ってもいない。
自分の『村』の者たちは、ほとんど体毛が無いし、真っ直ぐに立ってスマートに歩くことが出来る。顔もツルっとしていて眼の輝きに知性があふれている。
確かに『村』の者たちは、以前は言葉は喋ることが出来なかった。しかし今は、ほとんどの者が片言の『言葉』をあやつれるようになってきている。そしてそれは、ジュウメイが教えたのだ。ジュウメイが『言葉』を発明し、皆に教えたのだった。
古来より、火や道具を扱う猿人や類人猿たちは存在し、確かにそのことによって彼らの生活様式は変化を遂げて行った。
それは、猿人や類人猿から人間として進化していく発端になったかもしれない。
しかし、彼らはまだ『人』ではなかった。
人として、文明を発展させて行くためには、『言葉』を扱う必要があった。人としての教養や、倫理観を育むためには、『言葉』を身につける必要があった。
火や道具が、いつから使われるようになったのかは解らない。だが、最初のそれは『発見』でしかなかった。
もとからあるものをどう扱うのか、見付けるだけでよかったのだ。
ジュウメイは、人として初めて『発明』をした。初めて『言葉』を喋った。抽象的な概念や感覚だけでなく、体系的に言語による思考をすることが出来た初めての人であった。
まず始めに、自分に名前を付けた。次に家族に名前を付け、村人たちに名前を付けた。樹や花や動物たち、道具や建物や場所にも名前を付けた。感情や行為などにも名前を付けていった。
だが、まだまだ足りない。
ジュウメイが生きているうちに、全てのものに名前を付け終わることはないだろう。
しかしそれは、ジュウメイの子孫たち、村人の子孫たちが引き継いでくれるだろう。
もしかして、遠く離れた別の村でも、同じように『言葉』が発明されているかもしれない。近い将来その村々からも言葉を扱える人々が溢れ出してくるかもしれない。
そして『人』は、『人』として進化して行くだろう。
『人』として飽きることなく文明を発展させ続け、いつの日か、ジュウメイが想像も出来ないような、素晴らしい世界を築き上げていくことだろう。
言葉を発明した最初の人、ジュウメイはどこまでも走り続けながら、そういう空想を広げていった。
しかしそれは、まるで、終焉に向かって走る続けるのを止めない人類の姿を象徴するかのようでもあった・・・