ドアを開けると・・・
===スーパー・ブレインズ・パワー===
ドアを開けると、彼はニコッと笑い、「完成しましたよ。松茸探査機。しかもこれはナビゲーターにもなりますから、もうお父さんが遭難することもないですよ」
と言った。
それを聞いた豆山博士は、片手でドアノブをつかんだまま、もう片方の手でポリポリと頭をかいた。
彼が発見されたのは、全くの偶然からだった。いや、発見されたと言うのは少し語弊があるかもしれない。
それはこういう経緯である。
今では彼の父親代わりになっている豆山博士が、最新の発明品である『松茸探査機』の実験のために山奥深く入り込んだときのことだった。残念ながら実験は失敗に終わり、いつの間にか道に迷ってしまった豆山博士は、持っていた弁当ひとつと木の実などを食しながら3日間山中をさまよい歩き、絶望の淵に瀕して樹の幹に寄り掛かって休んでいたところを、彼に発見されたのだ。
彼は、数十メートル離れた場所から豆山博士を観察していた。そして、警戒心の強い動物のように樹や雑草の陰に隠れながら、這うようにしてそろそろと近づいてきたのだが、博士が彼に気付くと、またしばらくじっと身構えていたりした。
博士が「野生の猿かと思った」と後に語ったように、初めはとても人間には見えなかったようである。いくら山奥とは言え、日本の中で野生で育った人間が居ようとは、豆山博士でなくとも思いもよらなかったであろう。
どこからか拾ってきたのであろうボロ布をまとっただけの彼が、どうやら人間のようであると認識した豆山博士は、とにかく助かったと感じた。
しかし、博士が「助けてくれ」と連呼しても、彼は小首を傾げキョトンとした表情のまま何もしようとしない。
(言葉が通じない?そんな馬鹿な!)
豆山博士は懸命に自分の助けて欲しいという意思を伝えようとしたが、身振り手振りでそれを伝えようにもどうすれば理解してもらえるかがわからない。
仕方無しに博士は、とりあえずお腹が空いている事を伝えようと、ご飯を食べるしぐさとお腹を押さえて情けない顔をするしぐさを繰り返しながら、
「お腹、減った。食べ物、くれ」
と、彼に向かって何度も言った。
すると、変化が起こった。
「オナカ、ヘタ。タヘモノ、クレ」
と、彼が喋ったのだ。
それは喋ったというより、ちょうどオウムが人の言葉を真似するような感じだった。
「そうだ。私はお腹が減っているのだ。なにか食べるものをくれないか?」
豆山博士は大げさな身振りでそれを示した。
今まで無表情に近かった彼の目に急に爛とした輝きが宿り、サッと身を翻し林の奥へと消えていった。
(うまく伝わったのだろうか・・・)
不安の中で豆山博士はどれぐらい待っただろうか。
すぐそばの藪がガサガサと音を立てて彼が現れた。そしてその手にはウサギが一匹、握られていた。
(一応、言いたいことは伝わったようだが・・・)
博士の落胆をよそに、彼は最初に現れた方向に向かいながら(ついて来い)という風に手招きをした。
博士はまるで魔法にでも掛かったように、恐れることも無く彼について行った。
どのみちここにいても待っているのは「死」だけなのである。それよりもこの環境で「生きている」彼に従う方が生き延びる可能性は高い。そう博士が判断したのか、それともただなんとなく従ったのかはわからない。しかし、深い藪の中を軽快にかき分けて行きながら、遅れがちになる博士を心配するかのように振り返り振り返り進んで行く彼の姿を見て、
(助かる!)
という希望が次第に大きくなっていく博士の感覚は間違いではないようだ。
しばらくして、崖にポッカリと口を開けた洞窟に着いた。彼は博士がちゃんと着いて来るのを確認すると、サッサと洞窟の中に入って行った。
中は真っ暗である。
博士が入り口付近で入るのを躊躇していると、洞窟の中がボワッと明るくなった。どうやら焚き火を付けたようである。
彼は火を使えるのだ。
博士は安堵して洞窟の中へ入って行った。
奥へ進みながら、彼が入ってから火が付くまでの時間がやけに短かったのが気になったが、その問題はすぐに解決された。彼が、火が付いたばかりの焚き火の向こうで、まるで博士の心を読んだかのように「アー、アー」と嬉しそうに使い捨てライターを見せて踊っていたのだ。これもどこかで拾って来たのであろう。
その他にも、洞窟の暗さに慣れた博士の目に色々な生活用品が見えてきた。奥にはベッドのようなものに毛布まで掛かっている。
「君はここでずっと住んでいるのか?」
言葉が通じないことがわかっていても、博士は聞かずにおれなかった。
彼は、持って帰ったウサギをナイフでさばいている手を止めて、キョトンとした表情で博士の方を見た。綺麗に澄んだ彼の瞳には、ちらちらと焚き火の炎が写っている。
「きみは、ここで、ずっと、すんで、いるのか」
今度は身振り手振りを交えながら、言葉をひとつひとつ噛み締めるように彼に向かって博士は言った。
すると彼は、博士のその身振りをつけながら、
「キイワ、ココォ・・・ズッ・・・」
と、言葉を真似ようとして、嬉しそうに腕を振り体を揺さぶって踊り、キャッキャと笑った。
手にナイフを持ったままなので危なくてしょうがない。
博士はしかし、彼のその「真似をする」姿勢に興味を持った。彼は言葉を喋れないわけではない。言葉を知らないだけなのだ。
博士はお腹が減っていることも忘れて、彼に言葉を教えることに意識が集中した。何から始めれば良いのか。やはり名前だろう。まず、博士は自分を指差して、
「ま、め、や、ま」
と、口の開け方が彼に良く見えるようにして、ゆっくりと一文字ずつ区切りながら発音をした。
彼はチラチラと博士の口元を見ながらウサギをさばいていた。今度は真似をしようとしない。先ほど失敗したのが照れくさかったのだろうか。しかし、博士が何度も繰り返していると、声には出さないが口を開ける練習をしているのが博士にはわかった。
さばいたウサギを木の枝に刺して焚き火で焼き出した彼は、意を決したように口を開いた。
「マ、メ、ヤ、マ」
そしてまた嬉しそうに体を振って手を叩いて踊った。豆山博士もにこやかに笑いながら彼に拍手を送った。
「そうだ。まめやまだ。うまいぞ」
「マメヤマ、マメヤマ。マメヤマ、マメヤマ」
彼は体を前後に揺らしながら、何度も何度も繰り返した。
「そうだ豆山、それは私だ。私が豆山だ」
と、博士は自分を指差しながら言ったのだが、彼が理解しているかどうかはわからない。そして博士は次の行動に出た。こんがりと良い匂いがしてきた肉を指し示して、
「ウ・サ・ギ。ウ・サ・ギ」
と、彼に教えた。
「マメヤマ」
を、言い飽きた風な彼がしばらく考えた後、肉を指差して、
「ウ・サ・ギ」
と今までで一番はっきりと発音した。そして、その指の方向を博士の方に向けて、
「まめやま」
と言った。
豆山博士は、歓喜した。彼はどうやらそれが、ものの『名前』であると理解したようなのだ。
博士は次に、自分の指先を彼の方に向けた。彼は自分に向けられた博士の指をしばらく眺め、ゆっくりと自分で自分を指差した。それは彼が『自分』を認識した、生まれて始めての経験にもなったようだ。
そしてかれは口を開いた。
「ヨ・ン・パ・チ」
そう言ったまま、彼はぼんやりと考え込んでしまった。なんとなく目も虚ろになっている。
それが彼の名前であるという確証は無い。だが、博士にとってそんなことはどうでもよかった。少なくとも彼は『自分』を認識し、自分と博士とウサギが別々の『個』であると考え始めた。野生で育ち、今までただ生きてきただけの動物であった彼が人間になりかけているのである。
せっかくのごちそうであるウサギの肉は、彼が新しく生まれ変わる代償としてか、単なる炭素の塊に成り果てていた。
豆山博士は、ヨンパチと一緒に洞窟で一週間を過ごし山を降りた。その間に博士は、ヨンパチが驚異的な頭脳の持ち主であることを発見した。日本語の五十音の発音を丸一日で憶えてしまい、その後で博士が教えた単語は、一回聞いただけで憶えてしまったのだ。結局、一週間で普通の日常会話ができる程度までいったので、博士はヨンパチを連れて山を降りる決心をしたのだ。もちろん、博士の息子として。
自分の研究所と兼用である住居に帰ってからも、博士はヨンパチの能力に驚かされ続けた。
ヨンパチは、全ての物事を一度見聞きしただけで憶えてしまう。言わばコンピューター並みの記憶力の持ち主だったのである。
しかも、コンピューターなら、適切な命令を与えてやらなければ必要な情報は取り出せないし、一見全く関連しないような情報をつなぎ合わせることによって直感にも似た新しい発想を思い浮かべることもしてくれない。
ところがヨンパチの脳はそれが出来てしまう。新しい発明には欠かすことのできない情報の蓄積と、それを使いこなす直観力をヨンパチの脳は併せ持っているのである。
博士はその能力を『超脳力』と名付けた。そして、
「超『能』力と間違えられては困る」
と言うことで、スーパー・ブレインズ・パワーと呼ぶことにした。
そして、ヨンパチのスーパー・ブレインズ・パワーと豆山博士の長年の研究資料が実を結び、遂に博士の夢であった『松茸探査機』が完成し成功を収めた。
「これで好きなときに松茸が食える」
と、喜んでいた博士であったが、ある日、厄介な問題が持ち上がってきた。
数年に一度の国勢調査で、巡回にきた警察官によってヨンパチに戸籍が無いと発覚してしまったのだ。養子ということで登録しようにも本当の親のことはさすがのヨンパチの頭脳でも記憶には無かった。ただし、顔は憶えていたのだがそれだけではどうしようもない。
博士が困っていると、松茸探査機の噂を聞きつけて取材にきた記者がマスコミで取り上げることを提案した。 ヨンパチの頭脳のことはマスコミにとっても格好の材料であったのである。
テレビや新聞で取り上げられれば、もしかしてヨンパチの産みの親が名乗り出てこないとも限らないし、万一現れなくても博士とヨンパチの関係を社会現象化し、世間が認める既成事実を作り上げてしまえば行政も動かざるを得なくなってしまう。
かなりなリスクは覚悟しなければならないが、博士はそれに賭けた。ヨンパチは博士の命の恩人であり、ヨンパチのスーパー・ブレインを手放したくないのはもとより、野生の中で育った彼の自然な天真爛漫さが可愛いくて仕方がなかったのである。身寄りのない博士にとっては、ヨンパチに実の息子以上の愛情を感じていたのだ。
そしてそれはヨンパチにも同じことが言えた。彼にとって博士は『自己』を発見させてくれた恩人であり、それまでなんとなくくすぶっていた彼の頭脳に、すばらしい知識を詰め込んでいく快感を与えてくれた。
博士とヨンパチはマスコミに振り回される生活に飛び込んだ。
マスコミ各社は他局に出遅れまいと、こぞってヨンパチを取り上げた。
ヨンパチのスーパー・ブレインズ・パワーを大衆に見せ付けるため、ヨンパチの頭脳はろくでもない事柄を覚えさせられ、また、幾度も幾度もヨンパチが野生で暮らしたときからの生い立ちを語せられた。
そして、半年が過ぎ一年が過ぎたが、ヨンパチの親は現れなかった。しかし代わりに、行政が重い腰を上げ、ヨンパチが博士の養子になることを認めた。
博士は賭けに勝ったのだ。
だが、マスコミはヨンパチを手放さなかった。その頃には大学や民間の研究機関まで加わり、まるで人間の頭脳の限界にでも挑戦するように、これでもかこれでもかとヨンパチの脳に情報を詰め込んで行った。
そして悲劇は起こった。
ある外国の大学の研究室で、ヨンパチは最新の百科事典を憶えさせられるためにパソコンの前に張り付いていた。
博士は幾度となく、
「これが最後だ」
「次を最後にしてもらおう」
と、なんとかしてこの地獄から抜け出そうとしていたが、世界に研究機関は星の数ほどある。しかも、記憶をさせるという作業は研究の分野を選ばない。
人の脳は、五感を入り口として情報を蓄積していく。そして情報の出口は、ほぼ口からだけといっても過言ではないだろう。しかも、ヨンパチのスーパー・ブレインは『忘れる』という作業を行わない。
コンピューターの画面を凝視していたヨンパチの異変に最初に気付いたのは、豆山博士だった。
ヨンパチに動きが無くなったのである。
博士は最初は、作業の邪魔になってはいけないと思い、小さな声でヨンパチを呼んでみた。しかし何の反応も無かった。
「どうした、ヨンパチ。どうしたんだ!答えてみろ!ヨンパチ!ヨンパチー!」
肩を揺さぶったり叩いたり、大声を掛けたりしてみたが、ヨンパチは微動だにしない。
周りにいた研究員達も騒然とした。慌てて声を掛けたり救護班を呼ぶものもいた。そして別室から研究所の所長が駆けつけて来た。
「どうしたのですか?」
所長が豆山博士に問い掛けたが、博士はヨンパチを抱きかかえ、ただ涙していた。
「豆山博士、いったいどういうことですか?」
所長が豆山博士の肩に手を置き軽く揺さぶりながら、再び尋ねた。
豆山博士は、何も喋りたくなかった。なにも言いたくない心境だった。しかし、彼の科学者としての理性がそれに打ち勝ってしまった。涙をボロボロとこぼし、声を詰まらせながらも博士は喋った。
「フリーズですよ。ヨンパチは固まったまま動かなくなってしまったんだ!ちょうど、コンピューターでいうフリーズのように・・・詰め込み過ぎたんだ。メモリが一杯になってしまったんだ!・・・予感はあった。こういう事態が起こるかもしれないという・・・しかし、わたしは甘く考えていた。いつかはこういう生活も終わるだろうと・・・いつかはこの地獄から抜け出せる日が来るだろうと。しかし・・・わたしは甘かった・・・すまん、ヨンパチ・・・わたしが悪かった・・・この責任は全てわたしにある・・・許して・・・」
最後の言葉は声にならず、豆山博士は大声を上げて泣き叫んだ。それに対して、所長は何も返す言葉が無かった。
ただ、固まったままのヨンパチと彼にすがる豆山博士の姿を、カメラマンが懸命に写真に撮ろうとしているのを、周りにいた研究員たちが止めてくれていたのが豆山博士にとっては救いだった。
そこへ救護班が到着した。
看護婦が豆山博士をヨンパチからそっと引き離し、別の看護婦がヨンパチの手首をつかんだ。
しばらくして、看護婦が叫んだ。
「まだ脈があります!」
豆山博士はその言葉を聞くと、博士に付いていた看護婦を振りほどき、ヨンパチの顔を覗き込みに行った。
まばたきも、息もしていないヨンパチだが、まだ生きている!
豆山博士は錯乱したように、
「早く!早く!」
と、救護班を急き立てた。
慌しく担架が運び込まれ、静かに、しかし急いでヨンパチは運ばれて行った。博士はただ、両手を胸の前で組み合わせ、祈ることしかできなかった。
それから数日がたち、なんとかヨンパチは以前のように回復した。どうやらヨンパチのスーパー・ブレインには、まだ少しはメモリの空きがあったようだ。しかし、その「以前」というのは、豆山博士と出会う以前という意味である。病室のベッドの上で、ヨンパチは飯を食い、寝るだけの生活を続けていた。博士がどんなに呼びかけても、オウムのように言葉を真似することも無かった。
そして、博士はまた決心をした。ヨンパチを山に返すことを。
壊れてしまったヨンパチを、しばらくはマスコミが追いかけようとしていたが、博士の強硬な取材拒否のために、いつしか大衆もそれを求めることを忘れてしまった。
数ヶ月後、なんとか動きも回復したヨンパチは、博士とともに山を歩いていた。ヨンパチは博士との二人行きが嬉しいのであろうか。横道にそれたり、ずっと先まで行って戻って来たり、かと思うと来た道を引き返してみたり、とにかくじっとしていない。そんなヨンパチを博士も嬉しそうに眺めながら歩いた。時折、博士のそでを引っ張ったりするヨンパチに、
「これこれ」
と声を掛けながら。そうするとヨンパチは怒られているとは思わないのだろう。ニコッと博士に微笑みかけて、また走り回る。
(これで良かったのかもしれん・・・)
ともすれば自責の念にさいなまれる博士であったが、自然の中をのびのびと走り回るヨンパチの姿に、心を洗われる気持ちがした。
そして遂に、別れのときが来た。
ヨンパチが以前暮らした洞窟に着いたのである。
懐かしさと寂しさと、切なさが博士の胸を痛めた。
ヨンパチは洞窟のことを覚えていたのだろうか。真っ暗な中に一人でサッサと入っていってしまった。
その洞窟の暗闇に向かって、博士は言った。
「さようなら、ヨンパチ。そして、ありがとう。お前のことを、わたしは死んでも忘れないぞ」
そして、洞窟を後にしようとしたとき、中からヨンパチが出て来た。
後ろ髪を引かれる思いを断ち切って、博士が駆け出そうとしたときだった。
「お父さん!」
ヨンパチが叫んだ。
博士はゆっくりと振り向き、ヨンパチを見つめた。ヨンパチはペコッと頭を下げると、
「ここまでだましてきてごめんなさい。マスコミに後をつけられているかも知れないから、途中の道もいろいろ警戒してきたけど、もう大丈夫みたいだ」
と言うと、照れたように笑った。
豆山博士はその言葉で全てを悟り、ヨンパチを抱きしめると泣きながら笑った。
そして、ここで一緒に暮らそうと言うヨンパチの提案を断り、時々遊びに来るよと言い残してひとり山を降りた。
ひとりでも、博士は帰り道に迷うことは無かった。ヨンパチが作ってくれた松茸探査機のお陰で。