第二話 髪
民夫は、高校生の後半を暴走族として過ごした。それは、ある不幸な出来事が発端になるのだが、その話はまた後日にするとして・・・
ある集会帰りの夜更けのこと。
その日は、夕方ぐらいからどんよりとした雲行きで、暴走の集会途中から雨が降り出し、そのために集会は早めに切り上げられた。
民夫が一人で四つ輪を転がし、家路に向かっていた午前二時頃には、土砂降りの雨になってしまっていた。
民夫の家は、S県でも田舎の方にあり、そのとき彼が走っていたのは、田んぼの中の農道だったと言う。
当然、辺りには街燈も無く、深夜の豪雨の中で、自分の車のヘッドライトだけを頼りに、とにかく早く家に帰ろうと、民夫は80キロ以上のスピードで車を走らせていた。
真夜中の二時。周囲には田んぼしか無い農道。しかもバケツをひっくり返したような激しい雨。
そんな状況では、民夫でなくとも、その農道に人がいようとは考えもするまい。
車のライトの中に人影が浮かび上がったときには、既に結末は見えてしまったようなものである。
民夫は、足も折れよとばかりに急ブレーキを踏んだが、雨で濡れている路面では急停止が出来るはずが無い。
そこから先は、民夫にはスローモーションの映像のように目に映ったらしい。
人影は、髪の長い、黒いワンピースを着た女だった。
車にぶち当たる瞬間に、両目を見開いた女の凄まじい形相が民夫には確認できた。
女はそのままボンネットをゴロゴロと転がり、フロントガラスにぶつかった反動で車の屋根の上に乗り、そこを滑って行くのも、民夫は感じることが出来てしまった。
そこから100メートルほど先で、ようやく車が止まってくれた。
(やってしまった・・・)
民夫は一瞬、(逃げようか)とも、思った。
しかし、民夫にはそれは出来なかった。
豪雨の中、車をUターンさせて、ゆっくりと事故現場の辺りに引き返して行った。
なぜ、こんな時間に、こんな場所で女の人が一人で歩いていたのか。そのときの民夫には、この疑問は全く浮かんでこなかった。
車の上を通過したのだから、道の真ん中に、女の人は倒れているはずである。しかし、その辺りの地点に戻っても、人影は見えなかった。
そして、何度か車で往復した後、民夫は車から降りて、歩いて探すことにした。
傘を差し、懐中電灯で照らしながら、事故現場の辺りを歩き回ったが、やはり何も発見することは出来なかった。
(もしかしたら・・・)
反動で田んぼの方に落ちたのかもしれないと、その辺も含めて、より念入りに捜索を続けた。
民夫は、30分以上は探し回ったと言う。
そして、
(まさか、幻覚だったのか)
と言う結論を、民夫が出そうとしたとき、それまで目に入らなかった物体に民夫は気が付いた。
人間程度の大きさのものに気が行き過ぎていて、その小さな物に目が行かなかったのだろうか。
それは、小さな黒い猫の死骸だった。
民夫が、ライトを照らしてよく見てみると、ほとんど雨で洗い流されてはいるが、口からわずかに血を流している。少し勇気を出して、手で触ってみると、その体はまだ柔らかく、完全には冷たくはなっていなかった。
(そんな、馬鹿な)
しばらく民夫は呆然としてしまった。
車にぶつかったときのショック。こちらを睨み付けた女の顔。ボンネットから屋根を転がって行った感触。
その全てが幻覚だったというのだろうか。
しかし、そうとしか考えられない。
頭の中が真っ白になってしまった民夫だったが、それでも、その黒猫を田んぼの隅に埋めてやることは忘れなかった。
そして、ずぶ濡れになった身体を車に押し込んで、今度はゆっくりとしたスピードで自宅に向かった。
次の日の朝。
民夫は、昨夜、ガレージに突っ込んだままにしていた車を調べてみた。
前部のバンパーには、気になるようなへこみは無かった。もし仮に、人間がぶつかっていたのなら、相当のへこみが出来たはずである。ボンネットにも、傷のようなものは何も無い。
(やはり、猫をはねただけのようだ)
民夫は、そう思いながら、フロントガラスを調べようとした。
そして、気付いてしまった。
ワイパーに絡まった、数本の、黒い、長い髪の毛に。
これも、民夫(仮名)本人から、私が直接聞いたお話です。
この事件の後、民夫はしばらくの間、毎日、新聞を隅から隅まで見て行ったのですが、民夫が事故を起こした場所の辺りで、女性の死体が発見されたと言う報道はありませんでした。
この事件が一体なんだったのか、未だに、民夫にも意味が解らないということです。