第三話 トンネル
それは、今から10年ほど前のことだったと思います。
私は霊感と言うものが全く無く、幽霊を見るどころか霊的な体験をしたこともありません。
それを不服に思った私の友人、N浦、J郎、A美の三人は、誠に優しくも私に霊を見せてくれようとしたのでした。
彼らは三人が三人とも強力な霊感の持ち主で、それぞれが人に言うのもはばかられるような霊体験をしてきたということです。
その彼らに連れられて、何度か心霊スポットに出向いた私ですが、今回はその中のひとつ「金剛トンネル」のお話を聞いて下さい。
金剛トンネルは、大阪府と奈良県を結ぶ街道にあります。詳しい場所は失念してしまいましたが、街灯の無いクネクネと続く山道の峠に真っ黒な口を開けるその姿は、たとえそのトンネルにまつわる話を何も知らない人でも、入るのを躊躇することでしょう。
ある暑い夏の真夜中、N浦の運転するオフロード車で私たち四人は金剛トンネルへと向かったのですが、その道々、N浦は以前金剛トンネルへ行ったときの体験を語ってくれました。
N浦が金剛トンネルへ行ったのは、あるレンタカー屋でバイトをしていた時だそうです。
そのレンタカー屋には四人の男性アルバイトがいて、たまたまその日のお店の終了時間に四人とも揃っていました。けっこう暇な日だったそうで、夕方ぐらいからみんなで怖い話で盛り上がったのですが、その時も一人だけ霊感が全く無い人間が居て、それならと店が終わったら金剛トンネルに行くことに決まりました。
レンタカー屋ですから、車はたくさんあります。でも、どれでも自由に使えるという訳ではなく、そのときに使える車は二台だけでした。しかもその内の一台は、いわく因縁付きの車だったのです。
その因縁とは、こういうお話です。
その車はワンボックスカーで、以前、家族連れにレンタルしたことがありました。ところが、レンタル期間を過ぎても車は戻ってきません。何度かその家族に連絡を入れたのですが、その家は留守番電話になっていました。
一日が過ぎ、二日が過ぎようとしていたところ、金沢の警察から「そちらのワンボックスカーを預かっているので引き取りに来て欲しい」と電話が入りました。それはまさに、その家族連れにレンタルした車でした。
レンタカーの乗り捨ては、珍しいことではありません。その時も、店の従業員は「またか・・・」という気持ちでいたとの事です。そして、金沢まで行けるのならと、バイトのK君が引き取り役に名乗り出ました。
夕方のことでしたので、まだ金沢まで行く列車は走っている時刻でした。そこで、すぐに出発して、交通量の少ない夜中に北陸道を走って帰ることになりました。K君は旅行気分で出発しました。
金沢の警察の交通課を訪れたK君は、必要書類を書くとその場で車の鍵を渡され、
「車は裏の駐車場にありますから、勝手に乗って帰って下さい」
と、担当の警察官に言われました。
(おかしいな?)
K君は思いました。
普通、車の引渡しをするときは警察官が車まで付き添って、間違いや異常が無いか確認をしてから鍵を返してくれるものなのです。
(ま、ええか)
面倒な手続きが一つ省けたことを喜びながら、K君は駐車場に行き車の運転席のドアを開けました。
ぷーんと生臭いにおいとともにK君の目に飛び込んできたのは、血まみれになった車内でした。
(ふ、ふわぁ・・・)
声にならない叫びがK君の口から漏れ、K君はそのまま静かにドアを閉めると、転瞬、脱兎の如く交通課に向かって駆けて行きました。
「どっ!どういうことなんですかっ!」
カウンターから身を乗り出してそう言ったK君を、担当の警察官はうっとうしそうに見ていました。
どうやら、あの車を借りた家族は、車の中で無理心中をはかったようです。
ルンルン気分で金沢までやって来たK君でしたが、思いもよらぬ窮地に立たされてしまいました。このまま車を置いて帰るわけには行かず、かと言って車は血まみれ。
仕方無しにK君は、警察で大量の新聞紙とビニール袋を貰い、それで車内の座席シートをカバーして帰ることにしたのです。
深夜の北陸道は、あまり交通量が多くありません。走るのに都合が良いだろうと、わざとその時間帯を狙ったのですが、そのときのK君にとって、それは地獄のような状況だったことでしょう。
高速道路に乗って、いくらも走っていないときだったと言います。
(う、う、う・・・)
臭いがこもってしまうのが嫌で、窓を全開にして車を走らせていたK君の耳に、後ろの座席からうめき声のようなものが聞こえてきました。
男のような声でもあり、女のような声でもあり、また子供の声も混ざっていたのかもしれません。
それでもK君は、気丈にも車を見捨てること無く、深夜の北陸道を大阪に向けてアクセル全開で走り続けたのでした。
さて、話をもとに戻しましょう。
N浦たち四人が金剛トンネルへ行くに当って、このワンボックスカーほど適切な車は他には無かったことでしょう。当然のことながら、その時には車内は綺麗にされていて、まさかそこで心中事件があったなどとは解らない状態になっていました。(でもやはり、店の従業員でその事実を知っている者は、そのワンボックスカーを貸し出すことはためらっていたそうです)N浦たちは、至極当然の如くそのワンボックスカーに乗り込み、金剛トンネルへと向かいました。
真っ暗な峠道をヘッドライトだけを頼りに、N浦の運転するワンボックスカーはトンネルに到着しました
入り口の手前で車を止めたN浦は、
「どないする?」
と、仲間に聞きました。
N浦はトンネルの入り口を見た時、なんとも言いようの無い不快な感覚に襲われていたそうです。たぶん、他の三人も同じように感じていたことでしょう。
しかし、しばらく躊躇した後、せっかくここまで来たのだからとN浦は静かに車を進め、暗黒のトンネルへと入っていったのです。
トンネル自体はそんなに大きなものではありませんでした。
普通に通れば、たぶん2・30秒で通り抜けられるほどの長さでしょう。
N浦はゆっくりと車を進めていましたが、それでも通過するのに1分と掛からない筈です。
車がトンネルの中ほどに差し掛かったときのことです。
何の前触れもなしに、突然エンジンが止まりヘッドライトも消えてしまったので、N浦はあわててブレーキを踏み車を止めました。
「な、なんやなんや!」
「おどかすなよ!」
同乗者が口々にN浦に罵声を浴びせ掛けます。
しかし、必死にエンジンを掛けようと、無言でキーを回すN浦のあせりがみんなに伝わったのでしょうか。しだいに言葉が止み、いつしか車内は沈黙の場へと落ちていったのです。
静寂と闇の中で、N浦がキーを回す「カチッ、カチッ」という音だけが聞こえてきます。
N浦の懸命の努力にも係らず、エンジンはうんとも寸ともいいません。
そのときでした。
車の後ろの席に座っていた二人が「ううう・・・ううう・・・」と、うめき声を上げだしたのです。
N浦は、とにかくエンジンを掛けることが先決だと思っていたので、後ろを振り向くのももどかしく、ルームミラーで後席の様子をうかがいました。
真っ暗なトンネルの中で車のライトも消えてしまっているので、ミラーでは何も見える筈がありません。
しかし、N浦は見たのです。ミラーの中のぼんやりと浮かぶ白い影を。
N浦の背筋に、ぞっとするような冷たいものが走りました。
ミラーから一旦目を離し、
(そんなもん、見える筈が無いやないか・・・)
と、思いながら、それでも確認の意味を込めてもう一度ミラーを覗きました。
そこにはやはり、白い影がありました。
(な、なんなんや一体!)
N浦は手を止めること無く何度もキーを回しながら、ミラーの中の白い物体を凝視しました。
不気味なものを不気味なままで置いておく方がよほど恐ろしい。しかし、時には不気味なものには触れないほうが良いこともある。N浦がそのことに気づくまでに、そう長い時間は必要ありませんでした。
ミラーの中にぼんやりと映る白い影は、どうも白い装束を身にまとった白髪の老婆に見えるのです。
しかもその老婆は、車の後方から、トンネルの地べたの上をズルッズルッと手だけを使って這ってくるではありませんか。
後部座席の二人の、(ううう・・・ううう・・・)といううめき声とN浦のただならぬ気配に、助手席の人間も後方の様子をうかがったようでした。
そして、ズルズルと近づいてくる物体に気づくと、
「ひっ!ひっ!」
と、叫び声を上げたのですが、あまりの恐怖心からかそれ以上の言葉は彼の口からは出て来ませんでした。
(掛かれ!掛かれ!)
N浦は必死になってキーを回しています。
白髪の老婆は、ゆっくりとゆっくりと這い続け、遂に、老婆はルームミラーの視界から消えてしまいました。ワンボックスカーの後方の死角に入ってしまい、たぶん、すぐ車に手の届くところまで来てしまっているのでしょう。
そして車の後部の窓ガラスの下から、白い、痩せ細った手が上がってきたその時でした。
「ブルルン!」
なんとも言いようの無いタイミングで、車のエンジンが掛かったのです。
N浦は即座にシフトを入れ、車を走らせました。
ルームミラーを見ると、立ち上がった老婆が手を前に伸ばし、つかみ損ねた車の後を追うようにヨロヨロと2・3歩よろめいていました。
その後は、N浦はもうミラーを見ることは出来ません。
猛スピードでトンネルを抜け、峠のクネクネ道を出来る限り早く、下界の奈良の市街に向けてN浦は車を走らせました。
しかし、
(ここで事故を起こしたら何にもならへん)
と、安全にだけは気を配っていたそうです。
すると、前方から峠の道を上がってくるヘッドライトが見えました。
その明かりを見て、N浦は少し安心したように車のスピードを落としました。
助手席の仲間となんとか正常に戻ったような後部座席の仲間から、安堵の息が漏れるのをN浦は聞きました。
向かってくるヘッドライトは単灯で、どうやらバイクのようでした。
ゆっくりと進むワンボックスカーと、高い排気音を響かせて山道を上がってくるバイクとがすれ違ったそのとき、N浦は再び車のスピードを上げざるを得ませんでした。
「見たか?」
N浦が震える声で仲間に聞きました。
「見た・・・」
か細い確認の声が、誰からとも無く帰ってきました。
そうです。バイクに乗っていた男には、首が無かったのでした・・・
その後、N浦たちは結局ふもとの街まで降りて、そこで朝を迎えました。
その道を他の車が走り出して、ようやくN浦も車をUターンさせてトンネルに帰って行きました。
昨夜あんなに無気味に見えたトンネルでしたが、太陽の光のもとで見ると、何の変哲も無い普通の古びたトンネルに見えたそうです。
ただ、その入り口に、昨日は気が付かなかったのですが一枚の看板が立ててありました。
そこには、
「夜間エンスト注意」
とだけ、書かれていました。
さて、そんな話を聞きながら現場に向かった私たちでしたが、結局、私の前に白髪の老婆は現れず、首の無いバイクも現れず、わざわざトンネルの中ほどでエンジンを止めてライトを消してみたのですが、私には何も見ることが出来ませんでした。
しかし「夜間エンスト注意」の立て看板は、ちゃんと両方の入り口に立っていました。