暗い道
今夜は月も出ていません。
星明りだけの真っ暗な田舎道を、私は家路を急いでいました。
(誰か、私の存在に気付いて!)
心の中で何度もつぶやきながら・・・私の存在が薄れて行く。そのことをはっきりと自覚したのは、3日前の職場の同僚の言葉でした。
「メル、あんた影薄いよ」
単なる言葉のあやとして捉えれば、普通の会話の中のなんてことのない台詞として、聞き流してしまっていたに違いありません。
しかしその言葉に、私は心臓を握りつぶされたような衝撃を受けたのでした。「お前は神になる」
トーンの低い男性のものと思われるその『声』を聴いたのが、何時のことだったのかは正確には憶えていません。しかし、確か10日ぐらい前だったと思います。
出勤前で、慌しく朝食を取っている私の耳元に、不意に囁かれたのでした。暗い闇の中に、深く響き渡るような『声』でしたが、その声色だけは鮮明に憶えています。
私は食事の手を止め、キョロキョロと辺りを見回しました。いつもと変わりのない、古い家のキッチンです。
「メルちゃん、どうしたの?」
テーブルの向かいに座って一緒に朝食を取っていた母が、怪訝そうに私に問い掛けてきました。
「ううん、何でもない・・・」
その『声』のことを母に話している時間は、そのときの私にはありませんでした。ただでさえ、出勤時刻ギリギリに職場に飛び込む私です。一つバスに乗り遅れれば、それだけで遅刻は決定してしまいます。
(職場の近くにアパートでも借りたいな。田舎暮らしはもう嫌だ)
土間で靴を履きながら、毎朝出てくるのは、その思いでした。職場に向かうバスの中で、そしてその夜の寝る前に、少しだけ『声』のことを思い出しましたが、翌日以降は、もう気にしなくなりました。しかし、後になって、再びその『声』を聞くことになるとは・・・
その数日後の日曜日のことです。
仕事の日は、あまり時間が無いので、洗面所で顔を洗ったついでに、手早く化粧を済ませてしまいます。しかしその日は、久しぶりに会う友人と、街で遊ぶことになっていたので、少し念入りに化粧をしようと、私の部屋の鏡台に向かいました。そのとき、鏡に映るわたしの顔が、少しぼやけて見えたのです。
私は、眼は悪い方ではなく、今までに物がぼやけて見えることはありませんでした。
(寝起きだからかなあ)
ごしごしと両手で眼をこすって、もう一度鏡を見ましたが、やはり顔全体がほんのりとぼやけています。そのときも、あまり時間が無かったので、
(まあ、いいか)
と、深く気にせずに化粧を済ませました。
すると、化粧をする前よりもぼやける度合いが少なくなっていたので、安心して出かけました。そして、次の日の朝、洗面所の鏡に映った私の顔が、またぼやけていたのです。前日帰宅してから、化粧を落としたのはお風呂の中だったので、鏡は見ませんでした。しかし、今朝の私の顔のぼやけ具合は、前日よりもあきらかにひどくなっていました。
(何故だろう・・・本当に眼が悪くなってるのかな)
私の心に、視力が落ちているという不安感が広がりました。でも、そのときもやはり、不安を打ち消して、仕事に向かうしかありませんでした。私の身体に、何か恐ろしい出来事が起っていると本当に気付いたのは、その日、家に帰って鏡を覗いた時でした。
化粧を落として、恐る恐る鏡を見ると、私の顔ははっきりとぼやけてしまっていました。いえ、ぼやけるという表現は適切ではないでしょう。肌が、透き通って行くような、そんな感じを受けたのです。皮膚の表面だけだは無く、顔全体の色合いが薄くなっていて、輪郭がぼやけてしまっていたのです。
視力が落ちる不安感どころの話ではありません。私の心を占領したのは『恐怖』でした。
ただ、純粋な『恐怖心』だけでした。考えが全くまとまらず、錯乱してしまいそうな気持ちを押さえて、震える手で三面鏡をぎこちなく閉めて、そのまま布団の中に潜り込みました。
(何故・・・どうして・・・そんな馬鹿なことが・・・)
ある筈がないと、何度も何度も思いました。そして、幾度、布団から顔を出し、もう一度鏡を見てみようかとも考えたことか。しかし、駄目でした。鏡を見る勇気はどうしても出てきません。
そして、ふと気が付いて、私は自分の手を見てみました。しっかりと。不思議な事に、それまでの私は、泣いてはいませんでした。人間、あまり恐怖が心を支配しすぎると、泣けなくなるものなのでしょうか。
しかし、手を見、足を見、身体さえもぼやけてしまっているのを確認したとき、始めて、大粒の涙がボロボロとこぼれてきたのです。しかし、そのときでも、声を上げては泣きませんでした。ただ、涙が後から後から止めども無く流れてきただけなのです。
(どうして・・・どうして・・・どうして・・・どうして・・・)
そこから、一向に考えは進んで行きません。誰にとも無く何度も問い掛けて、泣き疲れていつの間にか眠りに落ちていました。次の日は、仕事を休みました。長い長い一日でした。布団を被ったまま食事も取らず、まるで生死の境をさまよう病人のように過ごしました。その間、何度か手を見ることは出来ましたが、鏡を見ることは出来ませんでした。しかし、何度見ても、手はぼやけたままでした。
(何故・・・どうしてこんなことになったの・・・でも、何時かは元に戻る・・・本当?本当に戻るの?・・・ずっとこのまま?・・・もっとひどくなる?・・・)
自分でも、よく気が狂わなかったものだと思います。次の日の朝、私は鏡に向かっていました。考え続けていても、何も解かる訳ではない。答えの出ない堂々巡りをしているよりも、何も考えないようにしよう。普段と同じように生活をして、仕事に行って、違うことを考えるようにしよう。そうしているうちに、何時かは元に戻るに違いない。絶対そうに違いない。
強く、何度もそう思っているうちに、不思議と心が落ち着いて、鏡に向かう勇気が出てきたのです。
顔は、化粧でなんとか誤魔化せます。しかし、よく見ると髪の毛までぼやけています。ですから、目立たないように、柔らかくふわっと仕上げました。手も、ぼやけてはいますが、人の手をまじまじと見ることなんて、そうはありません。自分の手でさえ、じっくりと見るのは爪を切るときぐらいのことでしょう。
それでも、母の居るキッチンに行くのは躊躇しました。その前日は一度も母には会いませんでした。母は、何度か部屋の前まで来て、声をかけてくれましたが、
「入ってこないで!」
としか、私は言えませんでした。ですから、母は私を心配してるでしょう。キッチンに行けばすぐ近くで顔を合わせないわけにはいきません。
私がキッチンに寄らずに土間まで行って靴を履いていると、キッチンから母が出て来る気配を感じたので、あわてて
「いってきます!」
と言って、玄関を飛び出しました。
「メルちゃん!ちょっと!メル!」
玄関まで出て来た母が、後ろから声をかけているのは解かっていましたが、そのまま振りかえることなく、私はバス停まで走って行きました。
(お母さんには、帰ってから話そう。何で気が付かなかったんだろう。相談できるのは、お母さんしかいないじゃない。 こんなこと、職場の人に言える筈が無い。病院に行くわけにもいかない。話せるのはお母さんだけだ)
バスの中で、知り合いに会いませんようにと願い、うつむいたまま、私はそう思いました。職場に着いて、前日の無断欠勤を上司に謝罪し、その後は出来るだけ誰とも話さないようにし、出来るだけおとなしく振るまい、汗をかかないように、化粧が剥げないように、ずっと気を付けていました。
やっと昼休みになって、トイレで化粧直しをしているところで、同僚に声を掛けられました。
「メル、あんた影薄いよ」
全身に鳥肌が立ちました。何も言葉を返すことが出来ずに、大きく見開いた目で真っ直ぐに鏡の中の自分を睨み付けていました。鏡の中の私の目は、ぼんやりと私を見つめ返しています。
隣で口紅だけを簡単に塗りなおした同僚は、
「元気出しなよ」
と言って、ポンと私の肩を叩き、トイレから出て行きました。
心臓が飛び出しそうなほどドキドキしていました。頭の中は真っ白です。
(ばれてはいない、ばれてはいない)
やっとの思いで私は、心の中でそう繰り返しました。しかし、考えてみると、いつまでも誤魔化しきれるものでもありません。いつかは解かってしまう。いつかは誰かにばれてしまう。誰かにばれて、指摘されてからではもう遅いんだ。
トイレを出た私は仕事場には戻らず、隠れるようにロッカールームに行き、手早く着替えをして職場から逃げ出しました。そして、バスに乗り家に向かいましたが、その途中で気が付いたのです。身体だけでなく服までぼやけてしまっているのに。
訳が解からなくなりました。
もう、家に帰るどころの話ではありません。
私は、人気の無い停留所でバスを降りると、そのまま当ても無く、山の中へと入っていきました。気が付くと私は、どこかの小さなお堂の中に身をひそめていました。どうやらそこで、一夜を明かしてしまったようです。
もう、誰に会うことも出来ません。
私の身体も、服さえも、すでに誰が見ても解かるぐらいに透き通り始めていました。手のひらを通して、向こう側が見えるのです。
(もういい・・・どうにでもなれ・・・)
何も考える気力も無く、訳も解からないままに、このまま消えて無くなってしまうのだろうか。それとも、透明人間になって生きていくのだろうか。
私の思考能力は、極限まで低下していたのでしょう。お腹が空かない事を、全く不思議に思わず、あろうことかトイレにも行っていないのです。二日目の夜も、そのお堂の中で過ごしました。同じ場所で、じっと座ったまま。
何処だかわからない、山の中の見知らぬお堂に一人で居ても、怖いという感覚は湧いて来ませんでした。夢と現実の境目をウロウロとしていたからでしょうか。
そして、その夜に、再びあの『声』が聞こえたのです。
「お前は神になる」
(ああ、そういうことなのか・・・私は死んでしまうんだ・・・)
その『声』の言葉を私は勝手にそう結論付けました。そして身体が透き通って行くスピードも段々と早くなって行き、三日目の夜更けにはほとんど透明になってしまっているのが解かりました。真っ暗なお堂の中でしたが、何故か周りが見えるのです。透明な筈の私の身体も見えるのです。でも不思議と、透明になっているのは解かりました。
(このまま死んじゃうの?いつ死ぬの?ここで一人で死んでいくの?)
そう考えたとき、強烈な感情が吹き出してきました。
(もう、お母さんに会えない!)
そんなのは嫌だ。お母さんに会いたい。会って話がしたい。せめてもう一度だけでも、私を見て欲しい。
私はすっくと立ち上がると、お堂を出て家に向かいました。家の方向はだいたい解かります。それにこの時間になると、この辺りで歩いている人はほとんどありません。たとえ歩いていても、私の姿を見咎める人はいないでしょう。残念ながら・・・
今夜は月も出ていません。
星明りだけの真っ暗な田舎道を、私は家路を急いでいました。
(誰か、私の存在に気付いて!)
心の中で何度もつぶやきながら・・・食事もせず、ほとんど睡眠もとっていなかったのに、私の足取りは軽快でした。ふわふわと、宙に浮くようにして歩いていました。そして、いつの間にか、本当に宙に浮いていたのです。しかし、そのことを深く考えることはしませんでした。神様になるのなら、そんなことは当然の様に思えたのです。
そして遂に、家までたどり着きました。文字通り「飛んできた」ので、お堂からはそんなに時間は掛かりませんでした。
玄関を開けようとした私の手は、完全に透明になっています。そして、その手は戸には引っ掛かりませんでした。
仕方なく、玄関の戸をすり抜けた私の心は、もう、諦めの境地に入っていました。ふわふわと廊下を進み、母を捜しましたが、キッチンにも居間にも居ません。そのまま私は、私の部屋まで行きました。
母が居ました。
私の部屋の畳の上に、ぽつんと座っています。
(お母さん!)
私は、ありったけの声を出して叫んだつもりでした。しかし、母には届いていないようです。悲しいけれど、私はそのことは予想していました。素直に、涙が出ました。そして恐る恐る、母に近づいて行き、母の目の前に座りました。
母も泣いていました。しかし、その目は私を見てはいません。焦点が私に合っていないのです。
(お母さん・・・)
もう一度、私が言ったそのときです。
「メルちゃん・・・」
お母さんが答えてくれました。思わず私は母に抱きつきました。確かに、抱きついた筈でした。
しかし私は、母の身体をすり抜け、母の後ろ側へ前のめりに倒れてしまっていました。涙がボロボロこぼれてくる目で、母の後姿を見ました。
「メルちゃん、何処へいったの・・・どうして帰って来ないの・・・」
母は、そう独り言を言いながら、肩を落としています。
私もその場で泣きました。母に声が届かない。母に触れることさえ出来ない。私はここに居るのに。私は死んではいないのに!思いっきり泣きながら、そう考えていると、ふつふつと怒りがこみ上げてきました。どうしてだろう。何に怒っているんだろう。何をこんなに怒っているのか、この怒りを誰にぶつければいいのか。
そうです。相手は解かっています。
怒りをぶつける相手は、あの『声』の持ち主しかいません。私には、『声』の持ち主に会って、全てを聞く権利がある。全ての謎を説明してもらう権利がある。そして、全てを元に戻せるのも、あの『声』の持ち主しかいない。私は立ち上がり、母の後姿に最期の声をかけました。
(行って来るね・・・)
そして上を向き、意識を集中すると、私の身体は当然の様に浮かび上がりました。そのまま天井をすり抜け、上へ上へと昇って行きます。私は薄々、感じていました。あの『声』の持ち主こそ、神様ではないかと。そしてその思いは今、確信へと変わっていっています。
私は、神様と戦う。
私は、神様と対決する。
その結果がどうなるのかは、予想がつきません。どう戦えば良いのかも全く解かりません。それより、神様が何処にいるのかも知らないのです。
私は、暗い空へと向かって、真っ直ぐ昇っていくしか道はありませんでした。雲の上に出たとき、あの荘厳な『声』が私の頭に響きました。
(なにが聞きたい)
私は上昇を止め、辺りを見まわしましたが、その『声』の持ち主の姿はありません。
「神様なら、わかるでしょ!」
(神か・・・しかし、神とて万能では無い。聞きたいことを言ってみよ)
私は、神様は万能だと思っていましたから、その答えはちょっと意外でした。そして問い掛けました。
「どうして・・・どうして私は見えなくなってしまったの!」
叫ぶ必要はないのでしょうけれど、相手が見えないので、どうしても声を張り上げてしまいます。
(お前は神になるのだ)
また、これです。
「どうして私が神様なの。どうして私なのよ!私なんて、頭も良くないし、そんなに美人じゃないし、超能力だって使えないわ。そりゃあ、今は使えるみたいだけど・・・でも、これはあなたがしたことでしょ。だから、教えてよ。どうしてわたしが選ばれたのよ!」
(私が決めたからだ)
その答えを聞いて、私は呆れました。ガキ大将が屁理屈を言っているように思えたのです。
(お前達は、お前達の基準で、勝手に物事を決めているだけではないか。頭の良し悪し、器量の良し悪し、そんな基準になんの意味があるのか。時代や習慣の違いで、そんな基準はお前達の中でも、意味を持たなくなるときもある。神になるのに、人間が勝手に決めた基準など必要は無い。ただ、私が決めるだけだ)
「その神様が、一人の人間を不幸にしてもいいの?神様ってみんなを幸せにしてくれるんじゃないの?神様っていったいなんなのよ!教えてよ。あなたはいったい誰なの!」
(私は、お前達から神と呼ばれているだけだ。お前の言うことは、願望だ。神はこうあるべきだという。しかし、私は宇宙全体を観ているのだ。そして、私は何もしない。観ているだけの存在に過ぎない)
この神様が、何を言おうとしてるのか、私には難しくてよく解かりません。
「でも、それならどうして私も神様にならないといけないの。あなたが居るのに!」
(お前は神になりたくはないのか?人間は、神になりたいと願うものではないのか?)
「私は神様なんかになりたくない。私はどんなに馬鹿でも愚かでも人間が好き。私は神様にはなりたくない!私は神にはならない!」そう叫んだとき、私はある変化を感じました。私の身体は、今では完全に透明になっています。
そして、今度はどうやら、心がぼやけて行くようです。私の中に、再び恐怖が襲ってきました。
「ちょっと待ってよ。どうしようって言うの。私をどうするのよ!私はどうなるのよ!」
どんどん恐怖心は大きくなっている筈なのに、私の意識はそれよりも早く薄れて行っているようです。
そして、最後の『声』が、薄れて消えて行く私の意識に届きました。
(お前は神になることを拒否した・・・お前の存在は、もうここには必要ではない・・・お前は神に・・・)