遠  謀

 

「ときは今 天が下しる 五月哉」

 この初句を詠んだとき、光秀の気持ちは固まった。

 信長を討つ!

 前将軍足利義昭を追放されて以来、光秀の心は急速に信長から離れていった。最初は朝廷を敬い、征夷大将軍足利義昭を盛り立ててくれていた信長だったので、まるで我が家来のように扱われたことも良しとしていた光秀であった。そして義昭が追放され、本当の家来に加えられたときには、もう信長に逆らえる時勢を逸していた。

 しかし、その後の信長の傍若無人ぶりは光秀の腹に据えかねるものがあった。

 朝廷に対する不遜な態度。仏を祭る比叡山の焼き討ち。次々と古来の風習、文化を打ち破る信長。

 何にも増して許せないのは、古く土岐源氏の血を引く名門明智家が、何故氏素性も知れぬ下賎の出である猿−羽柴秀吉などと同格に扱われなければならないのか。そしてその猿が、目下の信長の一番のお気に入りであるが故に、面と向かって罵倒することも出来ない。光秀はそんな自分自身をも許せずにいたのである。

 針のむしろを歩くような日々を送っていた光秀に、細川忠興に嫁いでいた玉姫が南蛮よりの宣教師カリヤンを紹介してきたのは、半年ほど前のことだった。カリヤンは内密に、人目に触れぬように光秀を訪れた。そして光秀に、何故信長の行いを許しておくのか。このままでは日本は無茶苦茶にされてしまう。信長を討てるのは光秀しかいない、と説いた。

 確かにそうであろう。柴田勝家や丹羽長秀、前田利家などの有力武将は信長の古参の家来であったし、羽柴秀吉も信長あっての秀吉である。唯一、信長を討てる可能性のありそうな徳川家康は、信長の家来ではなかったが織田家との同盟をかたくなに守りつづけているし、その他の大名では、今の信長に対抗できるだけの実力を備えたものは皆無である。

 織田信長の天下布武まではあと一歩なのだ。それを阻むことが出来るのは、天下広しと言えども明智光秀を置いて他には無い。

 そして、宣教師カリヤンを通じて聞いたところによると、西欧諸国も全く同じ洞察をしているとのことなのだ。西欧諸国は、もし運良く光秀が信長を討ち果たし『明智幕府』が開かれた暁には、現在堺の商人を通じて行っている貿易を全て幕府の管轄に置くことも承認している。そうなると、経済的にも安定する『明智幕府』は、ほとんど永久に存続することが出来るであろう。

 光秀には、道は全て開かれているように見えた。あとは、信長を討てる機会さえあれば―
 そう、チャンスはすぐ近くまで来ているかもしれない・・・

 

 そして、その約一年後のこと。

 宣教師カリヤンは、ある人物と会っていた。その人物は、普通の貴族程度では身に付けられないような高貴な威厳を保っていた。カリヤンは、その男とまともに目を合わせることも出来きずに話していた。

「しかし、あの秀吉にはビックリしました。まさか我々の計画にこんな結末が待っていようとは・・・」

 その高貴な男が答えた。

「うむ。私も驚いたよ。私が見ることの出来る未来は、その時点での未来でしかない。信長が生きている未来では、彼はその勢力を数年でアジア大陸に拡大し、その子孫はヨーロッパまで席巻していた」

「ええ。そのお話は以前にもお聞きしました。ですから、あなたは光秀を使って信長を滅ぼす計画を立てられ、私を光秀の元に遣わされました」

「そうだったな。そして本能寺変のすぐあと、私が見た未来には『明智幕府』があり、光秀の数代後には幕府は西欧諸国の言い成りになっていた・・・秀吉が毛利と和睦するまではな」

「秀吉は、信長が光秀に滅ぼされるまでは信長抜きの天下の構図を描いていなかったということですか・・・」

「うむ。歴史というものは、人の気まぐれや些細な心境の変化で、どうにでも未来を変えてしまう。だから私も面白く生きていけるのだよ」

「なるほど。で、今後の秀吉の未来はどうなるのですか?」

 調子に乗ってカリヤンは少々図に乗ってしまったようである。高貴な男は、何ものをも見透かしてしまうような、深みをたたえた眼でカリヤンを鋭くにらみ付けて言った。

「普通の人間が、未だ確定していない未来を知ることはあまり良いこととは言えない」

 カリヤンは、その男の恐ろしさを思い出し、平身低頭して謝罪した。

「も、申し訳ございませんでした。サン・ジェルマン伯爵」

 

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